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CATEGORY : 批評

/Aug 27, 2010

凉宮ハルヒの憂鬱 ・ 凉宮ハルヒの消失 


ようやく、映画「凉宮ハルヒの消失」のBlu-rayの発売が発表された。
なんだかんだ言って、「凉宮ハルヒの憂鬱」ってすごく面白いし、
ゼロ年代の空気を見事に相対化した重要な作品だったと思う。
って今更だけど、あえて呟いてしまうと…、


「凉宮ハルヒの憂鬱」は、特異な構造を持った作品だ。
どういうことかと言うと、それは作品のストーリーも、
登場人物達の関係性も、さらにこの作品自体とその他の作品達(萌えやオタク的な文化や、あと所謂セカイ系とか)や世の中との関係性においても、 何重ものレイヤー構造になっている点だ。


そのメタ的関係性自体が、
急速にネットが普及・高速化し、一方通行のマスコミが崩壊し、情報が多チャンネル化・双方向化して、何が真実かもよくわからない、価値観も多様化して共通の物語幻想も何も失われてしまったゼロ年代後半から現在に至る世の中の姿と、 まさに一致していたと思うのです。


90年代的な絶望とか閉塞感とか終末感に対して、
ゼロ年代の共通した気分は、主人公ハルヒが常に抱いているような 「憂鬱」そのものだったように思う。
で、「涼宮ハルヒの憂鬱」は、そういう時代の空気を単に反映しているのではなく、メタ視点から描いてみせている。


そしてこの「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品の素晴らしい点は、
このメタ的な構造が、パロディとかオマージュとか虚無に陥るわけでもなく、
物語の展開において強いエモーションを喚起することに成功していて、
それこそ泣きたいくらい青春だし、
どういう訳かポジティブなエネルギーに満ちている所だろう。


2010年2月からこの夏に至るまで超ロングラン上映を続けている
映画「凉宮ハルヒの消失」は、
それでも終わらないこの世界を積極的に肯定し、選び取る「決断」を下した、
ゼロ年代と10年代を繋ぐ重要な意味のある作品だと思う。


でもその「決断」とは、消失を見ればわかるけど、同時にとても切なくて…、
もう全編に渡って何なのってくらい切ない空気が漂っている作品なんですよね。。


以上、僕のtwitterより。






今更ながら、「凉宮ハルヒの憂鬱」。


我ながらあまりの傾倒ぶりに、
僕はどこへ行こうとしているのだろうか…?と若干引きつつも(苦笑)
この作品について、いつか何かを語らなければと思っていて、

昨日、劇場版のBlu-rayの発売が発表されたタイミングで、
ババーーっとツイートしてしまいました。



2006年に第一期のTVシリーズが放送されるや、
ちょっとした社会現象になった「凉宮ハルヒの憂鬱」ですが、
どんな話なのか大まかに説明すると、こんな感じ。


----------------------------

“私は、ここにいる。”


世界に退屈しきっている常識人の少年、主人公であるキョンが、
頭脳明晰、容姿端麗だが奇行の固まりの美少女、凉宮ハルヒと出会う。

凉宮ハルヒは、ありふれた日常に退屈し、非日常を渇望しており、
キョンを無理矢理巻き込んで、
「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」
を目的とした新クラブ「SOS団」を発足させる。


ところが団員として集まったキョン以外の三人は、
それぞれ本物の宇宙人、未来人、超能力者だった…。

しかも彼らはそれぞれの立場からキョンに
この世界の真相を語るのがだが、全く話が噛み合ない。

ただ、彼らにとって、 このハルヒこそが、
世界を改変してしまう程の力を持った、解析不可能な超常現象を引き起こす未知の存在であり、
ハルヒの機嫌を損ねたら、この宇宙の存立そのものが危うい、
という認識のみ一致しているのである。

そして、ハルヒ本人にはその自覚が全くなく、
彼らはそのことを彼女自身に悟られずに観察するため派遣されてきたのだという…。


こうしてキョンは、ハルヒに事実を悟られないように注意しつつ、
ハルヒ自身が無自覚な発生源となっている超常現象を密かに解決したり、
宇宙人や未来人や超能力者たちの勢力の思惑に振り回されたり、
非日常的な日々を過ごすことになる。


コミュニケーションが成立しない者同士が、
ハルヒをめぐって、次第にわかり合っていくのだが…、

しかし、皮肉なことに、最も非日常を渇望しているハルヒだけが、
自分を中心に世界の不思議の全てが集まっていることに気付かずにいる…。

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つまりそう、SFなんですね。




まあハルヒを見てから、
アニメやオタク的な文化にかなりハマっているわけですが、
(元々、それなりに嗜んではいましたが…)
こうして、今まで興味のなかったり、ピンと来なかったものが、
今や感動したり、良いと感じるようになる、
こういう経験をすると、

そもそも人が何かに感動するというのはどういうことなのか?という、
根源的な問いについて考えざるを得なかったりして、
そういう意味では良い切っ掛けになったと思います。






大まかに見ると違わない世界。でも確かに違う世界。
世界を疑うのか?自分の記憶を疑うのか?
「エンターキー」を押すべきか否か。
それを選択するのは、実はこの作品に(作り手受け手関わらず)縁を持った、
すべてのみなさんなのかも知れません・・


http://lantis.jp/js/ligbox/jsprint.html
↑このページが表示されるまでの演出にやられました…。
 ページ自体はショボイですが。。

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批評 |08:30 |コメント (0)

/Sep 14, 2010

LOVES.「JM」


8/28にLOVES.サードアルバム「JM」レコ初ワンマンで、
サポートでキーボードを弾きました。


LOVES.とは、
ex.SEAGULL SCREAMING KISS HER KISS HERの
日暮愛葉さん(Vo.Gt)のバンドで、
メンバーはex.ナンバーガールの中尾憲太郎さん(Ba)、
KAREN、fresh!、downyなどの秋山隆彦さん(Dr)、
岩谷啓士郎くん(Gt)、中村浩さん(Sax)という、

まさに神々バンド。


残念ながらKC君はアルバムの完成をもって脱退してしまったので、
今回のライブでは、UNCHAINの佐藤さんがサポートギターでした。

つまり、サポートキーボードの僕と合わせて、W佐藤だったわけです。


というか、ナンバーガールのメンバーと一緒に演奏するなんて
大学生の頃の僕が知ったらビックリするだろうなあ…。



リハでは僕の目の前が、秋山先生で、
そのドラミングを見ていたら何度もグッと来て涙ぐみました…。



そんな神々に囲まれてのリハは幾分か緊張しましたが、
本物の神であらせられるナカマーラーさんの御陰でなんとか乗り切ることが出来ました。



(本番前に大いなる眠りにつかれた中村さん。後ろは某ナハナハさん)






そして向かえた本番。

いやもう、楽しかったです。


アクシデンタリーという曲で今回の演奏では、
僕が最初に、イントロのフレーズを弾くのですが、

普通に、「あ、この曲は僕からか…」てな感じで
何気なく弾き始めた瞬間、

お客さん達がドッカーーーン!!っと。
そのエネルギーは瞬時にステージにも伝わり、
一気に爆発したのでした…。


こういう体験って、ライブでしか味わえないわけで、
何だかんだ言って音楽ってやっぱり良いなあ…としみじみ思ったのでした…。


ラストのLucky meでは、毎度のことながら
愛葉さんのエネルギーに圧倒されます。

そのエネルギーがバンドと混然一体となって
会場を飲み込んで行く様は、感動的ですらあります。



そして最後にサードアルバム、「JM」について。


間違いなく、LOVES.史上、最高傑作だと思う。


今までのLOVES.は、音源、ライブともに良かったのだけど、
どこかしら音源とライブでの「良さ」の軸がズレていたように思う。


それが、音源の良さを求めてライブを見た時、
また、ライブの良さを求めて音源を聴いた時に、
ちょっとした違和感を感じさせていた気がする。


今回の「JM」では、今までズレを感じていた2つの軸が
完全に一致している。


圧倒的に太い音、ダイレクトに伝わって来るエネルギー。
そして広がり行くメロディー。


この変化は、楽曲の良さやメンバーのパフォーマンスは勿論、
ミックスを務めている岩谷君の力に依る所も大きいと思う。

というわけで今後もLOVES.が
どんな風に進化して行くのか楽しみです!


http://www.cinra.net/interview/2010/07/26/000000.php
LOVES. CINRAインタビュー

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批評 |06:37 |コメント (0)

/Sep 20, 2010

「やがて朝がやってきて 昨日沈んだはずの太陽を 今日もまた見ている」

先日見に行って来た、大槻香奈さんの展示の感想ツイートのまとめです。

大槻香奈さんの展示に行って来た。
大槻さんは10代の少女をテーマにしたアクリルガッシュでの作品を主に制作しており、
また、昨年リリースされた KARENの2ndアルバム「sunday girl in silence」の
ジャケットなども手がけている。


少女というテーマから連想されるイメージは、
流れる時間の中の一瞬を切り取った儚さや刹なさだったりするが大槻さんの描く少女は、
それらとは対局でどこまでも少女の内的宇宙が描かれており、
ここではまるで時間が止まっているように感じた。
つまり刹那ではなく永遠。


また少女というテーマだったら当然扱われそうな恋愛要素も
大槻さんの絵にはやはり存在しない。また他者の存在も感じない。
どこまでも超然として、特に僕たち男性には
その内面の全てを窺い知ることも、理解することも出来ない、
まるで神のような存在として立ち顕れる。


少女は少女であるということだけで世界を創造出来る。
そしてそれに気づかない。だから非常に危なっかしい神だ。
だが、少女の体内が透けて見えるような描写は、
ここでの少女が神のような観念的な存在ではなく、
生身の肉体を持った生物であることも同時に突きつける。


という感じでまあ色々と、僕の中で作品との対話が行なわれたわけですが…、
絵の中の時間は進まないが、その絵を描く大槻さんの時間は進んで行く。
この少女達の“止まった時間/内的宇宙”が
今後どのように変化して行くのか見守って行きたいと思った。

以上、大槻香奈さんの、2人展 
「やがて朝がやってきて 昨日沈んだはずの太陽を 今日もまた見ている」
を見てきた感想でした。


http://ohtsuki.rillfu.com/


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批評 |00:46 |コメント (1)

/Oct 6, 2010

けいおん的ネオコンサバティズム/Angel Beats!的ネオリベラリズム

Angel Beats!に関するツイートのまとめです。


先日本当の最終回を向かえ、映画化も発表されて世間ではいまだ、
けいおん旋風が続いている。

そんな中、何故か、Angel Beats!が個人的に刺さってしまった。
AB!は所謂、「泣きゲー」(感動して泣けるストーリーのゲーム)の
シナリオライターとしてその名を馳せた、麻枝准氏が初めて自ら手がけたTVアニメ。
麻枝氏はAB!で、原作・脚本だけでなく、音楽も担当している。


※ちなみにAB!の劇中バンドのガルデモ(Girls dead monster)の
アルバムのセールスは初動で5万枚超え。OPシングルは8万枚超え。
アルバム、シングル累計では20万枚超え。
けいおんの OP、EDがオリコン1位2位を独占したとき、AB!のOPは確か5位だった。


さて、「けいおん」と「AngelBeats!」は、“同じ2010年 春スタート”、
“学園物”、“劇中に女の子バンドが登場する”、などと共通した要素が非常に多い。
どちらも、「泣きたいくらい青春!」を描いているわけだが、
にも関わらず、この2つの作品は、対照的なテーゼを提示していると思う。


けいおんは、登場人物全員が性善説の申し子で、それはあたかもディズニーランドの
中からは外部の建物は一切見えなくさせていることと同じ思想であり、
その空間にひたすら耽溺することを可能にしている「ディズニーランド的ネオコン」だと
オードリーシューズ/メカネロの林君は評しているわけだが、


けいおんが「ネオコン」ならAB!は「ネオリベ」的アニメだと僕は思う。
けいおんの主人公達は何の疑問も抱かずに清く正しくユルい日常を謳歌している。
片やAB!では、真面目に学生生活を送ると「消えて」しまう世界で、
主人公達は存在をかけて「体制」に抗い、日常を続ける為に戦っている。


そして、けいおんにおける卒業は、その是非はともかく、実は本質的には 離別じゃないとか
散々言われているわけだが(4人とも同じ大学 に行くし、梓も1年遅れで行くだろう)、
AB!は、どんどん仲間と別れて一人ずつ「消えて」いく物語になっているのだ。


ゼロ年代を終え、向かえた10年代初めの2つの話題作が、似たような設定を持ちつつも、
こうも対照的な方向性を示すとは、なんとも示唆的で、
何か重要な意味があることのように感じるのは、果たして僕の考え過ぎなのだろうか?




“ーゼロ年代の総決算。真面目に授業なんか受けたら「消えてしまう」世界ー”


最初に断っておくとAB!は、凉宮ハルヒの憂鬱や、けいおんの様に
普段アニメを見ない人にもお勧めしたいような作品ではない。
何故ならAB!はかなり露骨にMAD的・2次創作的な感性で作られており、
ゼロ年代のアニメのリテラシーがある程度はないと、正直ついて行けないと思うからだ。


AB!の舞台は、死後の世界の学校。登場人物達は全員死んでいる。
そして、その世界では、真面目に模範的な高校生活を送った者は「消えて」しまう。

ヒロインのゆり達は、「死んだ世界戦線(SSS)」を結成し、自らの存在をかけて神に抗い、
そして彼らを更正させようとする生徒会長の「天使」と日夜激戦を繰り広げている。


なんだけど、その、神に“抗う”方法とは、授業や部活をサボったり、
テストでふざけた答えを書いたり、学食や体育館で無許可でライブを行なったり、
要するにぐーたらな学生生活をみんなで仲良く送り続けるということで、
戦いの相手の「天使」も可憐な少女だったりするわけです。


これは、中学の時は授業中ひたすらノートに漫画やイラストを描き続け、
高校の時も出席日数的に卒業が危うくなる程のサボり魔・遅刻魔だった僕にとっては、
何だかグッと来る設定だ。

もっと言えば、AB!に漂っている「ノリ」みたいなものは、
僕が中学生の頃に描いてた漫画に似ているし、似たり寄ったりなアホな男子達が
ワラワラダラダラしてる感じとか、高校時代より中学時代を思い出させる。

つまり、AB!は思いっきり「中二病」的作品で、そこにこそ僕は共振している(苦笑)。


この世界では真面目に授業なんか受けたら「消えてしまう」。
そんなものクソ食らえだと。これはある意味非常に痛快な設定だ。

だけどそれは永遠には続かない。遅かれ早かれそんな日常には終わりが来る。
その時は、自分自身の存在が消えるとき…。
 
と、確実にやって来る「旅の終わり」に気付きながら
見て見ぬ振りをしてやり過ごしているような、「夏休みの終わり」的な、
なんとも言えない切ない空気が、AB!には漂っている。


AB!は、生前に未練を残した者が、死を受入れて生まれ変わる、というような
魂の救剤みたいな単純なお話ではなく、

理不尽な死に方をしたことによって、生前に未練を残した者達が、
SSSでの日々を経験する中で、自らの「生」を再帰的に受入れ、
そのことによって真の「死」を向かえるという物語だと思う。


ーどうか、彼らが彼らの物語を終えられますように。
 手を振って、見送れますように。よかったね、と。ー






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批評 |22:22 |コメント (0)

/Dec 18, 2010

批評について

この前、連投した批評についてのツイートをストックしておきます。


ぼくにとってここ数年の中の「ここにあった!」はボカロシーンだった。RT @kenichiromogi 最高の批評の一つは、自分が動くこと。キュレーターの長谷川祐子さんが言っていた。「これは違う」「これは違う」「ここにあった!」自分の「ここにあった!」に出会うまで、動き続けること。


これは本当そう思う。作り手からも受け手からも、批評的な言説に対して、「実際に作ってからもの言え」とか「プロに対して素人の自分達は何も言うべきではない」なんてあほな台詞が平気で出て来る。RT @kenichiromogi 批評精神こそ、日本に最も欠けているものの一つ。


実際に何かをやった人しか何かを語るべきではないなんて、そんなバカな話があるかって。スポーツ見てあーだこーだ言うには実際にプロの選手か監督にならなきゃいけないのか。戦争について何か言うには実際に戦争に行かなきゃいけないのか。政治について何か言うには政治家にならなきゃいけないのか。


芸術とか音楽についても同じで、何も作り手じゃなければ何かを語っちゃいけないなんてことはないし、作り手が何かを語るにしても、言ってることとやってることが釣り合ってなきゃいけない、なんてことはないわけで。


まあだけど、ちゃんとした批評じゃなくて言いがかりみたいなしょーもない罵詈雑言も確かに沢山あって、それらに対して、「ゴチャゴチャいうなら自分でやってみろ!」って言いたくなる気持ちもわかるが、反論するなら別なロジックで反論すべきだろう。


だけど、とくに日本の音楽ジャーナリズム(とくにロックやポップミュージックの領域)は、陳腐な心理主義と提灯記事ばかりで、まともな批評がほとんどないというのも、また事実…。


世界的に評価されている日本の芸術家はちらほらいるけど、世界的な影響力をもつ日本の言論人とか批評家っているんだろうか。


海外でも評価されてる日本の芸術家っていうのは、主に、欧米のコンテクストに則った表現、つまり向こうの規準に合わせて評価されている。欧米の規準なんか関係ない日本独自の表現、みたいなものがどんどん出て来て、それが世界で評価されるようになれば良いと思う。


海外の規準なんか関係ない日本独自の表現としては、オタク文化があって、だからこそ日本の現代美術の領域でもオタク文化は結構大事にされてる。だけどハイコンテクストなオタク文化はそのままでは欧米ではなかなか理解してもらえない。(てか同じ日本の中でも理解してもらえない場合が今も多々有り)


村上隆氏なんかは、オタク文化を欧米のコンテクストに合わせて翻訳し、段階的に理解させていくみたいな戦略をとってある程度成功している。(個人の評価という意味の成功じゃなくて、オタク文化を欧米人に理解させる試みが。個人の成功で言えば大成功だと思います…)


だけど、出来れば作品レベルでは向こうに合わせた翻訳をせずに、生(ナマ)のまま受入れてもらえる土壌を作るのが望ましい。


その為には、批評の力が必要不可欠だろう。向こうの規準にないもの(作品)を向こうに理解させるには、それがどのような価値があるものなのか、言葉で語って理解させる必要がある。


というわけで、実際に音楽とか絵とか映像とか何か作ってる人も、自分では作ってなくてそれらを楽しんでいる人も、「批評」の重要性を認識して、どんどん批評したら良いですよねーっていう話でした…!「イイネ!」「知らんがな」


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で、その後の@mech_hayashi くんとの議論もストック。

トゥギャッタでやるべきかもしれませんが…苦笑

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●mech_hayashi ハヤシヒデキ
しかし、残念ながら現時点でボカロシーンを語ることに成功している「批評」もまた存在していないのも現実。。不毛な「内」「外」論か自分語りでない、批評的言説が、(ボカロに限ったことではないけど)現れて欲しいものですが、音楽に関してはその多様性故、困難という…。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
ある程度一部の音楽には目をつぶって(馬鹿なふりをして)、語らないことには、前に進めないのかもしれないと思ってます。。

●jsato_FLEET 佐藤純一
うーんとぼくはそういう次元の話をしたのではなくて、「批評」それ自体が軽んじられている世間の風潮に物申したかったのですが…。あとボカロについても不毛な「内」「外」論と自分語りを超えた批評的言説もあると思ってますが…。

●jsato_FLEET 佐藤純一
その上であえて言うなら、ぼくはたとえ単なる「自分語り」だとしても、どんどん皆語るべきだと思ってます。何故なら、質の向上を図るには、量の充実が必要不可欠だからです。しかしながら質の悪い批評ばかりが横行して、結果、人々が批評離れしてしまうという現実もある。

●jsato_FLEET 佐藤純一
なもんで、多くの人々は自分語りだろうが何だろうがどんどん語るべきで、一方プロの物書きやそれを目指すような人は、自分の言葉で文化の底上げを行うんだという覚悟と自覚を持って批評をおこなって頂きたいな、というところでしょうか。。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
ええ、わかります。人々が「批評」を欲しない空気を変えたい気持ちは完全に同意です。なので話はずれますが、佐藤社長が「ぼくにとってここ数年の中の「ここにあった!」はボカロシーンだった」と感じたことについての「批評」をぜひ聞きたいと思いました。

●jsato_FLEET 佐藤純一
今までの沢山のツイートとかでぼくなりの批評を行ってきたつもりですが…、それはブログなりでまとまった文章でってことですか?

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
大雑把に言えば、今までのやり取りで「ボカロには『何か』がある」ことを感じているのは大いに伝わりましたが、その「何か」はまだ掴みきれてない、という結論でしたよね。その「何か」を捉える批評をいつか聞きたいという話です。

●jsato_FLEET 佐藤純一
なるほど。それはそのときが来たら自ずと語ることになるだろうし、結局捉えきれなかったとしても、捉えきれなかったなりに、総括することになるのではないかと。。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
「その時」をお待ちしています…!

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
あ、それと、ふと思ったのですが、「人々が批評精神を身に付けるべきと考えること」と、以前話に出た「動物化を肯定すること」は、矛盾しはしないでしょうか?どうでしょう?

●jsato_FLEET 佐藤純一
そんなに矛盾しないと思いますけども。何かを語りたい人、それが気持ち良い人はけっこう沢山いる…。で、そういう言説を否定する風潮が動物的というわけではないですし。案外、批評のデータベースみたいなものが構築されて思わぬ面白い展開があるかもしれません。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
それは「動物化」の定義を拡張してしまってはいませんか?「動物化」とは「もはや他人の欲望を欲望しなくなり、自分の欲求を満たすことで充足すること」だと思いますが、「批評」とは、「私はそう思う」の「私は」を際限まで消去する行為です。つまり「他者性」を受容する…

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
立場から出発する営みです。語義の上から両者は相反すると考えます。

●jsato_FLEET 佐藤純一
その意味では寧ろ僕は「批評」の定義を拡張してしまってるのかもしれません。「“私は”そう思う」が否定されずに、勝手な自分語りが溢れ、だがその先に、本来の意味での「批評」に辿り着く者も少数は現れるのではと。そういう芽を摘んではいけないと言いたいのです。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
僕jも芽を摘むべきだとは別に思いません。ただ考えてほしいのは、身勝手な「私はそう思う」言葉が氾濫して、「他者性」を排除していった挙句に、同質な'私'を持つ者だけが群れるようになったのが、現在の「島宇宙化」のプロセスです。だからこそ…

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
'私’を消去した、本来の意味での「批評」が今こそ重要になってくるのではないかと。僕はそういう「批評」こそが、島宇宙化や動物化を破る言葉になり得ると思っています。かつ、その困難さに途方に暮れてもいるのですが…。

●jsato_FLEET 佐藤純一
ぼくは動物化を「肯定」はしてないですよ。人々はどんどん動物化して積極的に易きに流れるべき、とは言ってない。人々は易きに流れて行っちゃうのはしょうがないから、易きに流れる前提でものを考えよう、その方が可能性を感じる、ということを言ったんですよ…。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
なるほど、だとしたら僕が勝手に誤解していたようです!謝。僕もまったく同意見です。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
'私’を消去した、本来の意味での「批評」が今こそ重要になってくるのではないかと。僕はそういう「批評」こそが、島宇宙化や動物化を破る言葉になり得ると思っています。かつ、その困難さに途方に暮れてもいるのですが…。

●jsato_FLEET 佐藤純一
その為には、身勝手な「私はそう思う」言葉すらも排除してしまっては、もはや何も生まれない。質を向上させるには量を充実させよう、量を充実させるには例え身勝手な言説であったとしても自由に語れる風潮が望ましい、と思ってます。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
「私はそう思う」を排除する動きの具体例はどんなものがあるでしょうか?どちらかと言えば、「私はそう思う」のに対して「私はそうではなく、こう思う」発言を排除する傾向があるような気がします。マスメディア上でもソーシャル上でも。

●jsato_FLEET 佐藤純一
スポーツのニュースのユーザーのコメントに対して別のユーザーが「批判ばかりせずに黙って応援しろ」だの「彼らはプロなんだから私達より判断力がある筈だから黙ってろ」とか、自分の作品を批判された作者が「自分で作ってからものを言え」みたいな発言をしたり、、

●jsato_FLEET 佐藤純一
何かを語りに対して、くだらない言葉遊び、意味の無い自分語りとして、「私はこう思う」そのものを排除する傾向がある気がします。勿論さらに、「私はそうではなく、こう思う」発言を排除する傾向も。あと一般的に批評って大事だよねってコンセンサスもない気がします。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
確かに確かに。その風潮はありますね。きっとそれはお互いの「私はそう思う」感情が侵害されることを、先回りして排除しようとする動きかもですね。確かにそうなると、事態はもっと悪化していることに…。その捌け口を2chが請け負っているのだとも思います。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
批評や思想の役割が、azmnに倣って「どうしたら世の中が良くなるか考えること」であるとすれば、音楽を批評することって難しい…。音楽をあくまで個人のためのものであると考えれば、その人が気持ちいいと思えればもうそれで何の問題もなくて、あとは自分の趣向とのマッチングだけが課題になる。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
そうではなく、音楽はもっと社会的なものなのだ、と言いたいなら、近代芸術全般がそうであるように、「それに触れたものが今までの日常を送れなくさせてしまうもの、人間を更新するもの」だと仮定することはできるけど、

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
しかし、そういった「美学」が実は近代社会が要請する「個」の確立を目指すための巧妙な仕掛けでしかなかったすれば、「個=主体」の確立が社会の輝かしい成長をもたらすのだ、という先進各国で挫折したイデオロギーの罠に陥るのではないか…?(例えばアメリカにおける映画表現)

●jsato_FLEET 佐藤純一
まあ日本には元々「芸術、アート」という概念が無い。あと思想はいざ知らず、批評の役割はazmnの考えだけではなくて、「良いブツをつくることの大切さを確認したい。批評とはそんな試みだ。」という側面もあるかと思います。http://bit.ly/hEmHWD

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
確かに素朴にそう考えるのが一番幸せなのですが、「良いブツ」の「良い」の基準を常に再帰的に参照を求められるのが、「ポストモダン」社会の最も厄介なところかなあと。常に梯子を外される危険に身構えなくてはいけないことが「批評」の困難さだなあと、思うのです。

●sato_FLEET 佐藤純一
必ずしも社会に関連付けて、世の中をより良くする為に、何かを考えることだけが批評ではないんじゃなイカ?ということです。「良いブツ」の「良い」の基準が無いポストモダン社会の厄介さ、批評の困難さについては言わずもがな完全に同意です。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
だからazmnは「敢えて馬鹿なふりをする」ことを選んだ。まさに決断主義…。

●jsato_FLEET 佐藤純一
まさにそうですね…。

●jsato_FLEET 佐藤純一
それにしても、なんとかじゃな「イカ?」って、もはやふざける気が無くても無意識に使ってしまっている自分がいるでゲソ…。

●mech_hayashi ハヤシヒデキ
「イカ?」はついはまりますね…。アニメ見てないのに…。


以上、2010.12.10の http://twitter.com/jsato_FLEET より。

こういうのはやはりトゥギャッタでやるべきなのかな…?苦笑

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/Oct 17, 2011

少女たちの平行世界 ー神話 ポスト震災 未来ー (大槻香奈 展「乳白の街」について)

ニュートロン東京にて、大槻香奈 展「乳白の街」が開催中です。
素晴らしい展示でした。


大槻香奈さんの展示「乳白の街」について。

「乳白」とはソーシャルネットの比喩。乳白ガラスは外の風景の揺らぎに関わらず、光そのものを均一に部屋の中に拡散することが出来る。ソーシャルネットも同様に誰にでも平等に、情報の発信と共有、そして連帯の機会を与えてくれる。

乳白ガラスもソーシャルネットも「人の創りしもの」だ。「自然」や「外の風景」や「社会」など、我々(主体)が<選べない与件>である<外部>の不条理を引き受けた上で、その中から希望を見出すこと。この態度に社会学者の宮台真司氏が言うところの「ポスト震災の意味論」に近いものを感じた。 

魔法少女まどか☆マギカのまどかは、世界の摂理<システム>が、予め恣意的に設計されていたことに気づく。我々も3.11によって我々を取り巻く社会<システム>が様々な利害関係によって恣意的に設計されたものだと気がついた。
まどかも、大槻香奈も、その不条理を引き受けた上で、希望を作り出す。

今回の大槻香奈さんの展示には、まど☆マギと共通する要素がいくつもある。大槻さん本人もそう思っているようで、まど☆マギを見たとき、自分がやりたいことを全部やられてしまった、と感じたという。つまり、まど☆マギを見る前から彼女は「ポスト震災の意味論」的なものを感じていたということ。

これはシンクロニシティ(共時性)。3.11と時を同じくしてまどか☆マギカが現れたように、90年代にはオウム地下鉄サリン事件と時を同じくしてエヴァンゲリオンが現れた。つまり、大槻さんは時代の無意識を捉える感度が高いということ。アーティストとして得難い素晴らしい資質だ。


最近の大槻さんは、少女の周辺にデジタルな質感のノイズを描写した作品を多く描いていてる。これは生身の肉体とネットの中の自分が重なった状態で1つの人格が形成されているということ。呼吸をするようにツイッターで自らの思考を発信している大槻さんだからこそ、この表現にはリアリティを感じる。

だが実際の作品は全てアナログで描かれており、批評家の宇野常寛氏による「虚構が現実をハックする」「アーキテクチャによっていかに身体性を引き出すか」云々の議論に当てはめるなら、生身の身体か虚構、どちらか一方に偏ることなく、虚構によって効率的に身体性を引き出すという、大槻さんの柔軟な姿勢が見て取れる。

このように、大槻さんの作品は現代の様々な最先端の潮流といくらでも結びつけて語ることが可能だ。どういうことか。それは彼女が真に現代的な作家、正しく現代美術作家であるということの証左。だが、ただ単に「現在」を描いているだけではない。


今回の展示は配置も素晴らしい。1Fは未来、2Fは現在を表現しており、3Fは時間の概念がない世界、まさに「あっち側」「乳海攪拌」の世界そのもの。
その霊的な空間である3Fの最奥には「白い消滅+」という作品。1Fから乳白越しに訪れる者を見つめていた少女が、ここで乳白の中に消滅する。

このナラティブ(物語的)な空間演出によって、観客は、神話の世界、3.11後のこの世界、未来の世界を、「同時に」経験する。

大槻香奈は、ソーシャルネットからヒンドゥー教の天地創造神話である乳海攪拌を、時間軸とは無関係な共感覚によって接続し、時空の概念を超えて平行世界を描いているのだ。


大槻香奈展「乳白の街」は時空を超越した感性で、ポスト震災=「恣意的に設計されていた選べない与件が可視化された世界」を引き受け希望を描く。

いま、ニュートロン東京は、過去現在未来全ての時空への回路が開かれている。
この空間がフォーマットされてしまう前に、もう一度足を運んでみたいと思う。







いやはや、マジで良かったです。必見ですよこれ…。

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