BLOG

«トークイベント・餃子・FUTURE SKETCH 東京会議| BLOGトップページ |2012:fhánaについて»

/Nov 5, 2011

ぼくたちは「敢えて」生きている

「ぼくたちは穴を掘って、<意味がない>という死骸にみんなで土を被せることを選んだ」

一週間くらい前、同僚の結婚式の三次会で、久々に会った友人がこんなことを言っていた。ぼくはその三次会で、若い新婦の友人たちとぼくの間にある、ジェネレーションギャップとはまた違った情報格差に、頭を抱えたい気分になっていた。その格差についてはいずれ機会があれば語るとして、そのときぼくの友人も、ぼくと同じ気分を共有していた。そして友人との会話はいつの間にか、生きる意味とは何か?という話題になっていた。

ぼくの考えは、「生きることに意味なんかないが、そのうえで敢えて物語れ」だ。どういうことか。いろいろ思うところがあったのでブログに記しておく。

◇ ◇ ◇

ぼくたちは「敢えて」生きている。

ぼくたちは意味(物語)がなければ生きていけない。意味のない死も耐えられない。だから、あらゆるものごとに意味を求め、物語ろうとする。その最高峰は芸術だろう。芸術は、物語そのものを生み出す営み。この物語への欲求はどこからやって来るのか。

人の生には本来的に意味が無い。偶然生まれ、偶然消えて行く自然現象みたいなものでしかない。基本的にはランダムで不公平なものだ。でもそれじゃあ多くの人は耐えられない。だから人々は常に生きる意味を求めて、物語る。毎日の生活のちょっとした出来事に、人生の転機に、誰かとの出会いや愛について、あるいは世間を騒がすニュースについて、何かしらの意味や文脈を見出して物語に回収する。もしも<意味が無い>という答えに辿りついてしまったら物語は終わってしまう。だから物語は永遠に着地しない。それが、人々が物語を欲求する根本的理由。

ぼくたちは<意味が無い>という死骸を墓に埋めて隠蔽している。冒頭に記した友人の言葉「ぼくたちは穴を掘って、<意味がない>という死骸にみんなで土を被せることを選んだ」とは、そのことだ。同じように、かつての人々は、<死>を恐れ隠蔽していた。

死んでしまったら、存在が消えてお終い。何も無い。でも、人々はそれに耐えられなかった。王たちは、復活を信じて、巨大なピラミッドを作り、自らをミイラ化したりした。死の恐怖から逃れるために、いろいろな宗教が生まれたりした。かつての人々は、復活や、輪廻転生や、天国の存在を、本気で信じていた。

しかし、時代が進んで科学や死生観の哲学が発達した現在、本気でそれを信じている人はごく僅かだろう。多くの人々は、何となく、まあ死んだら終わり、<無>だと、わかったうえで、何かしらの宗教を選択していたり、していなかったりする。人々は歴史の中で、<死>についての恐怖にそれなりに折り合いをつけることに成功した。

だけど、生きることにも死ぬことにも<意味がない>ということの恐怖については、いまだ折り合いを付けることが出来ていない。いまのぼくたちは、<意味がない>という死骸に土を被せて隠蔽してる状態だ。生きる意味が見つからずに苦しんだり、見つかった気になって心が軽くなったりを繰り返している。

もし、生きることに<意味がある>とこれからも信じ続けていたら、生きる意味が見つけられなかったとき、人は耐えられない。不幸になってしまう。だから、かつて人々が歴史の中で死の恐怖を克服したように、ぼくたちは墓を暴いて<意味が無い>という死骸を克服すべき時が来ているのではないか。


おそらく、その為には二段階の気づきが必要だろう。

まず、「人は意味がなければ生きていけない」ということ。このことに気づいている人はまあまあいるだろう。気づいてないけど縛られてる人も沢山いるだろう。次に、「本当は意味なんてない」ということ。このことに気づいて、尚且つそれを乗り越えている人はごく少数だろう。

「ぼくたちは穴を掘って、<意味がない>という死骸にみんなで土を被せることを選んだ」 
その、土を被せるという行為こそが、「終わりなき生きる意味探し」だ。そのことに気づいたうえで、「敢えて」物語ろうという選択。

ここで突然別な言い方をするならば、「伊達と酔狂」が大事、ということ。特別意味があるわけでもないたんなる自然現象を超えて生きようとしても、本当は意味がない以上、そこに何を求めてもそれは「伊達と酔狂」でしかない。しかし逆に言えば「伊達と酔狂」だけが、意味を「感じ」させてくれるのだ。大事なのは、意味があるかないかではなく、意味があるように感じることが出来る、ということだ。

もう一つ、生きることに意味はないけれど、欲求は自明なもの、本能・生理現象としてある。食欲、性欲、睡眠欲。さらに、自分という存在を誰かに認めてもらいたいという承認欲求、他にも、今まで生きてきた経験の蓄積(文脈)、つまりその人固有の物語によって培われた独自の欲望。誰かを幸せにしたいとか、有名になりたいとか、良い作品を作りたいとか。物欲もこの類だろう。言わば、人の生物としての自明性。

ぼくたちが墓を暴いて<意味が無い>という死骸を克服する為には、<意味がないという本当のこと>と<生物としての自明性>の関係をコントロールすることが鍵となる。

つまり、欲求が満たされなくても、もともと意味などないのだから何も絶望する必要はない。もし幸運にも欲求が満たされることがあったら、何か意味を捏造して物語に酔えば良い。意味を捏造したことによって生まれた何かとの関係性こそが、文脈であり新しい物語だ。それはぼくたちが前に進むうえでの糧になる。それが、「生きることに意味なんかないが、そのうえで敢えて物語れ」ということだ。

ぼくたちは、「敢えて」生きている。

◇ ◇ ◇








ところで今週のはがないは、羽瀬川小鳩がかわいかったですね…。
あとFaze/Zeroは戦闘場面がめっちゃくちゃカッコ良かったですね…。

で、今気づいたんですが、中二病というか、邪気眼って、言ってみれば伊達と酔狂ですね。
小鳩とか黒猫とか、シュタゲのオカリンとか、邪気眼キャラを良いなーと思うのはそういう理由が深層心理にあったのかもしれません…。

日々 |11:39 |トラックバック (0)

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.fleet-sound.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/217

 

jsato_FLEETをフォローしましょう

amazon.co.jp

HMV